近藤 香織

みずがめ座 O型

出身地:北海道

趣味:生きる事 “食う(大盛り)・寝る(休みの日はたっぷり)・遊ぶ(仲間とおしゃべり)”

資格:日本不妊カウンセリング学会認定 不妊カウンセラー

日本助産師会認定 不妊・不育ピアカウンセラー

潜在意識アロマⓇセラピスト

私は、女性は望むと妊娠出来ると思っていた。

35歳で双子を自然妊娠するも、双胎とも稽留流産となる。

その後、いっこうに妊娠兆候が無く不妊治療を開始する。

総合病院で正社員として働きながら、37歳から45歳までの8年間を仕事と不妊治療を両立する。

子供を授かる事が出来ない事への、焦りや苛立ち。他の人は出来て自分に出来ない事への敗北感や劣等感に苛まれる日々を過ごす。

不妊治療の終焉が近づいた時、自分の経験を無駄したくない、そう思い一念発起して不妊カウンセラーの資格を取得する。

勤務先の病院で不妊相談外来を設置し、カウンセリングを行う。不妊症専門科が無い病院の為、カウンセラーがいる事を病院のホームページに載せていないにもかかわらず、相談にいらして下さる方がいた。

「話してスッキリしました。来て良かったです。」「カウンセラーさんがいる事をどうしてもっとアピールされないのですか?」と言われ、はっと思った。

そうだった。私も誰かに正しい情報を伝えて貰いたかった、相談したかった。

もっとたくさんの方に会いたい。不妊・不育・妊活中の方に寄り添いたい。どこで暮らしている方も、お仕事をされている方も、場所や時間にとらわれる事なく会える場所を作ろう。

カウンセラー暦13年目の経験と実績を活かし、オンラインでも相談が出来る様、不妊・不育・妊活カウンセリングサロンを開く。

ここで少し私の過去についてお話させて下さい。

お姫様と怪物くん

雪が降る情緒あふれる街に産声をあげました。

母は私を23歳で妊娠、小柄な母は周りから子供が子供を産むみたいだねと言われたそうです。

新生児室の私のあだ名は、「お姫様」(うれP)

隣に寝ている男の子は「怪物くん」(ガッチリ体形だったみたい)

同じ病院で同じ日に生まれた彼は、今どこに?

引っ込み思案な小さな女の子

小学校入学時の体重はなんと16㎏(小さ!)

授業中にトイレに行きたいと言えず、お漏らししちゃった事がありました。

袋に入れた汚れたパンツを、母へ「お土産!」と言って渡しました。(笑)

初めて挙手をして発言したのが4年生。(遅!)

通信簿、体育△、その他全て◎、先生から一言、もっと積極的に!

恋はまだ早い

怖い先輩の勧誘で断り切れずに入ったバスケットボール部。(昔はよくありましたね)

私がババババスケットボール部⁉運動神経が切れているのに!

お汁粉を食している父に報告をしたら、あまりの驚きに口から白玉を吹き出し、私の頬に当たりました。(笑神様降臨)

恋した相手は野球部の男子。一番人気でした。(競馬か!)

野球部の彼に密かな恋心を抱きながら、男子バスケットボール部の先輩を目の肥やしに、耐えた中学校3年間でした。(よく頑張った)

バスケットボールと彼

私の高校の女子バスケットボール部は、引退する3年生が次のキャプテンを秘密裏に決めて、最後のミーティングで発表する慣わしになっていました。

自分には関係ないとヘラヘラしていたら、次のキャプテンに私の名前が!事の重大さにビックリして思わず涙がこぼれてしまいました。

高校では部活に入らず、恋と遊びに明け暮れるぞとそんな気持ちで入学した私が、まさかキャプテンになるとは・・・。(また先輩の勧誘で入部)

16歳で人生初めての彼が出来た日、私は究極のモテ日でした。1日で2人の男性に告白されました。こんな事は2度と無いでしょう。

バスケ部キャプテンという立場と応援団長でヤキモチ焼きの彼との交際の両立や、高校生にして3度の三角関係のもつれを経験しました。(先が思いやられる)

往復70㎞の距離を自転車で通学にもチャレンジしました。1日で弟から借りたママチャリが壊れてしまいました。(ごめんなさい弟よ)

20代はあっという間

よく言われる様に20代はあっという間に過ぎ去りました。

仕事も恋愛も一生懸命しました。有り難い事に2度の結婚の機会がありましたが、人の妻になる自信がなくて好きなまま別れを選んでしまいました。私を選んだ事に後悔するのではないかと思ってしまいました。(若かった・・・)

勢いで結婚

33歳、その当時付き合っていた彼と別れ、私はもう結婚は出来ないのかなぁと思っていたら、33歳と11ヶ月滑り込みで結婚しました。交際期間は3ケ月の超スピード婚。

2人でいる時間が欲しかったけど、年齢の事を考えて、すぐに家族を作ろうと決めました。まさかこれから試練が待ち構えてるとは思いもしませんでした。

コウノトリは何処へ

33歳11ケ月、結婚。(34歳と言わない乙女心)

34歳、早速家族を増やそうと妊活開始するも妊活半年、一向に妊娠兆候がありません。白黒ハッキリしたい性格の私は、すぐに不妊症検査を受けたかったのですが、その当時は不妊期間が2年以上経過していなければ不妊症検査を勧められませんでした。夫も検査はまだ早いと、病院に行くことに賛成ではありませんでした。

35歳、やっと夫を説得して、不妊症検査を受ける事に。検査の途中で双子を自然妊娠出来ました。しかし残念ながら双胎とも稽留流産になってしまいました。結婚記念日と同じ出産予定日の双子でした。天にも昇る気持ちというのは、こんな気持ちかと思った矢先の流産。一気に天国から地獄に落とされた様でした。諦め切れず、何度も胎児の心拍を確認する為の通院をしました。病院のロビーでお腹の大きな女性を見て、胸が苦しくなりました。あの人のお腹の赤ちゃんは生きていて、どうして私のお腹の赤ちゃんは死んでしまったの?それ以来、妊婦から目をそらし、おむつのCMを見ては涙する日々が半年間続きました。通院は、自然妊娠出来た事で一旦終診。流産を経験したら、以前よりもっと子供が欲しくなりました。

37歳、再度不妊症検査を受けましたが、私にも夫にも不妊の原因がありませんでした。年齢を考慮し、不妊治療を開始。先ずはタイミング法、そして人工授精にステップアップしました。

39歳、私の強い希望で、体外受精を受ける事に。初めての採卵、たくさんの卵子が成長出来たお陰で、お腹がはち切れるのではないかと怖くなりました。最初の移植後、もう気分は妊婦なり、ヒールの低い靴を履きました。しかし無情にも月のものがやってきました。これからの受精卵の移植を考え、念の為に子宮筋腫核出術を受けました。

42歳、やっと体外受精で妊娠しました。「おめでとうございます。妊娠していますよ。」と言われても、ずっと妊娠出来なかった私は、どうリアクションしていいのか分からず、ボーっとしていました。胎嚢が大きくなり、悪阻が始まりましたが、心拍が確認出来ません。また稽留流産でした。手術をして子宮の中をきれいにする事を進められましたが、お腹の中に出来るだけ居て欲しかったので、ギリギリまで手術を延ばしてもらいました。その結果、自然の排出が始まり仕事中に出血してきました。家に帰り、シャワーを浴び、食べられるうちに食事を済ませ、自然流産の準備をしました。腹痛と出血はどんどん強くなり、便器にボタンボタンと音を立てて落ちる血の塊と流れる出血でトイレから出る事が出来ません。トイレの中から病院へ連絡、真夜中の緊急入院になりました。

43歳、高校時代からの大親友が妊娠。流産の回数まで一緒だった親友の妊娠が分かった時、私は不妊カウンセラーの試験でした。人生の分かれ道の様でした。

45歳、人工授精6回、体外受精の受精卵の移植 13回、子宮筋腫核出術も行いましたが妊娠出来ず、私の不妊治療は静かに幕を下ろしました。微かなコウノトリの羽音だけ聞こえたかな。

人生一度っきり

不妊治療中、夫のペナルティ(察して下さい)が発覚し、バカバカしくなって離婚を申し出ました。

しかし夫は、離婚を拒否。

結局、元サヤに戻って、不妊治療を再開していました。(いいの~?)

長い不妊治療、いつの間にか子供が出来ない原因が私にある様に思われていました。

不妊治療終焉、何もかもから解放されたくて、バッグ1つ持って、家を飛び出しました。

16年間の結婚生活の半分以上を不妊治療に費やしました。

憎き女性ホルモン

離婚が成立し、16年ぶりの独身生活が始まりました。

満喫するはずが、自由って何?幸せってどういうこと?と自問自答する日々。

2年後、検診で腫瘍が見つかりました。

「悪性です」ドラマのワンシーンの様でした。頭の中が真っ白になりました。(よく言うフレーズ)

女性ホルモンが悪さする乳癌でした。

夢じゃないんだ現実なんだ、私は死ぬんだ。親より先に逝くなんて、なんて親不孝者なんだろう。残された弟にも迷惑をかけてしまう。(皆んなごめんね)

手術して放射線治療して、現在もホルモン療法をしています。ある日突然月経を止められた私の身体と心は、変化について行けず悲鳴を上げました。

うつ状態になり、生きる意味を考える様になりました。誰にも必要とされていないのに、どうして私は生きているのだろう?何の為に生きているのだろう?

子供を産めなくて、胸に傷がついて、女性に生まれて来る必要があったのでしょうか。女性ホルモンに翻弄されまくっちゃいました。

人生の断捨離

癌になって死を覚悟して思いました。私が亡くなった後、残された人に迷惑をかけない様に物を捨てよう。断捨離しよう。

整理し始めると心に変化が起きて来ました。どうしてフライパンもお鍋も食器も服もこんなにあるのだろう?

どうして今までこんなに執着してきたのだろう?

もう手放そう。物も人間関係も手放そう。

お陰で、私に本当に大切な物と人が残りました。